あってはならない、否定できない可能性――最悪の終末。
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【20XX年 封鎖特区 鎌倉】
始まりにして終わりの地、鎌倉。
世界結界はもはや意味をなさず、
敵性来訪者の来襲、そしてシルバーレインによるゴーストの発生により荒廃した地。
――この特区において、人間という言葉は意味を成さない。
何故ならば、ここには人間などいないからだ。
人間などという生き物は、とうの昔に死に絶えてしまった。
奪い、犯し、殺す。
略奪し、陵辱し、殺戮する。
そういったものに忌避感を持っていては、生き残れない。
この朱(アカ)い空の下で生きていけるのは、
そういったものを平然と行える、当然として扱える、“そういった”生き物だけだ。
人間というものをどこかにごっそりと忘れてきたモノだけだ。
けれど、そんなものを果たして人間と呼べるだろうか?
否、断じて否!
人間とはもっと素晴らしいものであるはずだ!
善性を尊び、理性を重んじ、自制こそを美徳とする生き物であったはずだ!!
……そう唱える者から順に死んでいった。
だから、もうここには人間などいない。
封鎖特区・鎌倉。
この場所において、人間という言葉は意味を成さない。
人間などという生き物は、とうの昔に死に絶えてしまった。
残っているのは――畜生だけだ。
旧鎌倉市内某所。
今はエノシマ・エリアと呼ばれているその場所を、男が一人歩いている。
男は、一見してすぐに浮浪者と思える風体をしていた。
垢と汗の饐えた臭い。見苦しいまでに伸ばされた無精髭。裾や袖端がズルズルに擦り切れてしまっているシャツとズボン。襤褸を頭からスッポリと被っているせいで顔は窺えないが、その影から覗く両目には力が無く、ただただ絶望だけが浮かんでいる。
今にも倒れてしまいそうな覚束ない足取りで男が歩いているのは、
アスファルトで舗装された広い道路である。
かつては綺麗に整備された車道であったのだろう、
たっぷりと道幅を取った道路はしかし見る影も無く荒れ果てていた。
アスファルトは罅割れ、その隙間からは得体の知れない雑草が覗いている。
まるで傷口に涌いた蛆のよう。
ならばこの道路は屍骸のようなものか。
ああ、それは或いは、言い得て妙かも知れない。
ただし、屍骸なのはこの道ではない。
死んでいるのは、この街だ。
この“特区”自体が巨大な屍なのだ。
ならばこの道路が死んでいるのだとしても、何の不思議があろう。
むしろ不思議があるとすれば、それは――
男は不意に立ち止まり、襤褸の上から自分の胸を握り締めた。
両膝を突き、痩せ細った体を折り、右手で胸の真ん中をきつくきつく握り締める。
それは、神に祈りを捧げているような姿だった。
それは、自分の心臓を抉り出そうとしているような姿だった。
死んでいる。
街も、道路も、死んでいる。人も、心も、死んでいる。
それなのに、
「何故――まだ私は生きている?」
乾いた唇が言葉を紡ぐ。水分を亡くした皮膚は少し動かしただけで容易く裂け、赤く血を滲ませる。けれど男は構わない。もとより痛みなど感じてい ないかのように、そのどうしようもない疑問を口にする。何度問うたかも判らない。誰に問うても答えは無かった。それでも思わずにはいられない、疑問。
「何故――こんな世界になった?」
搾り出された声を聞くモノはいない。それはきっと幸運な事だった。
もし誰かが聞いていれば、きっと正気など保てなかっただろう。
何もない声。そんなものは、もう声では無いから。
正気などとうに持ち合わせて特区の住人達でさえ、そんなものは受け入れられない。
地獄の底を攫う空っ風にも似たおぞましい虚無を孕んだ声で、男は問う。
「何故、こんなことになった?」
自分達は、なんのために戦っていたのか。
こんな世界が来る事が無いように戦っていたのではなかったか。
それなのに、何故世界はこんなことになっている。
誰が間違えたのだろう。
何を間違えたのだろう。
何故間違えたのだろう。
どこで間違えたのだろう。
いつから間違えていたのだろう。
どうして間違えてしまったのだろう。
「私達が……間違っていたとでも………言うのか!」
破れた唇から滴る雫にも気付かず、男は叫ぶ。
それは、叫びと呼ぶにはあまりにも小さな声だったけれど。
それでも、それは男の叫びだった。
削り取られ傷ついた魂の、振り絞るような慟哭だった。
その時。
男の嘆きを食い破るように、爆音が鳴り響いた。
朽ち汚れ墓標のように並び立つ建築物の群のその向こう、赤黒い煙が立ち昇っている。
あの向こうで戦闘が行われているのだ。
それを知ったところで、彼の心にはなんの情動も起こらなかった。
この特区において能力者同士の戦闘など日常茶飯事である。
なにより、彼は絶望に疲弊し過ぎていた。
例えばその煙の下で繰り広げられている戦いが、この異形と異常を押し込めた特区においてさえ圧倒的に逸脱した戦闘能力を持つ“本物の化物共”によるものだと知っていたとしても、彼は気にしなかっただろう。
男は機械的な動作でのろのろと顔を上げ、無感動な視線を空へと向ける。
朱い空。上がる黒煙。響く爆音。倒壊するビルの断末魔。
世界の終りのような光景。
否、終わってしまった世界が、そこにあった。
男は立ち上がる。その顔に浮かんでいるのは、絶望と諦観だけだ。
膝を払う事も無くまたフラフラと歩き出そうとして、最後にもう一度空を見上げる。
朱い空。上がる黒煙。響く爆音。蠢動するナニカ。倒壊するビルの断末魔。
「………?」
そして男は踏み出そうとしていた足を止めた。
なんだろう、今、ナニカが見えたような………
朱い空。上がる黒煙。響く爆音。倒壊するビルの断末魔。
そして、朱い空を背景に蠢く、なにか、酷くおぞましいなにかが。
「あ……ぁ………」
それを、いかにして例えよう。
其れは終りだった。其れは絶望だった。其れは悪夢だった。其れは禁忌だった。其れは狂気だった。其れは蠕動する肉塊だった。其れは脈動する群体 だった。其れは蠢動する醜悪だった。其れは地獄の底から溢れ返った冗談だった。其れは凝り固まった腐泥で練り上げられた出鱈目だった。其れは思いつく限り の嫌悪を催す全てを一つ処に押し込めた不条理だった。
或いは其れは――聖書に語られる『軍団』のようであった。
「あ、あぁぁぁぁぁぁぁぁ………」
終りが蠢いている。あのビルの向こうで。
絶望が渦巻いている。あの黒煙の元で。
禁忌がのさばっている。あの朱い空の下で。
狂気が歌い踊っている。あの、あんな醜悪な姿で。
男は、ただそれを見上げていた。
両目を見開き、閉じることも出来ない口はだらしなく半開きのまま意味を成さない音を垂れ流して、脚は瘧のように震え、例えこの瞬間にも失禁し正気を失っても不思議ではなかっただろう。
そんなものだ。
本物の終りを前に人はあまりにも無力である。
無力なる者はただ諦め、全てを投げ出すしかないのだ。
そう――
チャリン、と銀色の音が響いた。
今にも正気を手放そうとしていた男の目が、地面へと下りる。
朽ち果てたアスファルトの上、そこに。
「あ――あぁ……」
ただしそれは――
いつか彼女から貰った、
今はもういない彼女から託された、
どれだけの絶望がその身を刻み尽くしても決して手放さなかった、
そっと手を触れるだけであの輝かしい日々を鮮やかに思い出させてくれた、
銀色の、クロスが落ちていた。
彼が本当に――無力だった場合の話である。
「私達が……間違っていた?」
馬鹿な。
ならば何故私達は戦った。あの戦いの日々が、間違っていたとでも?
――気が付けば、脚の震えが止まっていた。
「あの日々が………間違っていた?」
違う。
そんな事はない。そんな事は、あって良い筈が無い。
――乾いた唇は、血を流しながらも確かな言葉を紡いでいた。
「そんな、事が………」
もしあの日々が間違っていたというのなら――あの人達の死は何だった。
守りたい人達がいた。心を許した友達がいた。誰よりも愛した恋人がいた。
あの人達が託した想いも。あの人達が抱いた願いも。
全て、間違っていたとでも言うのか!
――見開いた両目には、燃え上がらんまでの意志が満ちていた。
「そんな事が――許せるものか!!」
吼える。
獣のように、或いは勇者のように咆哮する。
男はもう、絶望に浸った浮浪者などではなかった。
垢と汗の饐えた臭い。見苦しいまでに伸ばされた無精髭。裾や袖端がズルズルに擦り切れてしまっているシャツとズボン。惨めに痩せ細った体。
それでも、その表情は紛う事無き戦士のそれだった。
「立ち向かってやる……」
あんな巨大な化物を自分独りで倒せるなどとは思わない。
だが、それがなんだと言うのだろうか。
あれは敵だ。この世界――あの日々が紡いだ世界を脅かす敵なのだ。
ならば、例え犬死だとしても構わない。
そう、今はもう遠い昔。
かつてあの学園で。かつてあの輝ける日々に。かつてあの仲間達と共に。
かつて自分が、世界を脅かす全ての不条理に対して“そう”したように。
“そう”してやる。
「立ち向かってやる――!!」
朱い空へ、その空を覆わんとするおぞましき侵略者に向けて男は吼えた。
拳を突き上げんばかりに咆哮した。
真っ直ぐに、正しき怒りを宿した瞳で倒すべき敵を睨み付けた。
今此処に――最も気高き意志が甦る。
聞くが良い、世界を穢す者共よ。
そして心せよ。
彼の者こそは“聖拳(ジャッジメンテッド)”。
あらゆる邪悪を打ち砕く至誠の拳。
高き空を仰ぐ、真に勇敢なる戦士である。
「貴方、足元がお留守ですよ」
「え?」
突然真後ろからかけられた声に、男は振り向いた。
反射的な行動だった。
完全な不意。
つい一秒前には誰もいなかった場所に現れた誰かの声に、彼はつい反応してしまったのだ。
それは、なんという愚かさか。
もし彼が戦士として全盛期の感覚を持っていたのならば、
振り向くよりもまずなんとしてでも逃げようとしてただろう。
「あ、あれ?」
だから、それは必然の事。
背後へと向けかけていた視線を、男は自分の足元へと落とした。
影があった。
自分の影があった。
自分の影から生えた手があった。
自分の影から生えた無数の手があった。
自分の影から生えた無数ののっぺりとした手があった。
自分の影から生えた無数ののっぺりとした夥しい数の手があった。
自分の影から生えた無数ののっぺりとした夥しい数の手に掴まれている足があった。
「え? う、嘘、なんだよ、これ」
困惑する。それもまた無駄だ。
そんな事をしている余裕があれば、彼は脚を切り落としてでも逃げるべきだった。
けれどもう遅い。
蜘蛛が巣に掛かった虫を絡め取っていくように、黒い手は男の胸までもを掴みにかかっていた。
「く――おおおぉぉぉぉぉッッ!!!」
ようやく、それはあまりに遅すぎたとは言え、男は戦士としての行動を取った。
即ち、反撃である。
得体の知れぬ敵であれば、得体の知れぬまま打ち倒せばいい。
振り返る途中であったために、体がやや半身になっていたのも都合が良かった。
この体勢からなら――必殺の一撃を叩き込める!
全身が稼動する。肉が、骨が、純粋な破壊を生み出すための装置として駆動する。
“手”の拘束など問題にもならない。
何故ならこの身は一つの機械。その一撃を生み出すための機構に過ぎないのだから。
回転が連続し、加速が連鎖する。
龍の如く全身を走り抜けた最大速度は拳に宿り、標的を撃つ。
空手、という武術において基本にして最終形とされる『必殺』の一。
それが今、解き放たれる。
「破―――ッ!!」
其れ即ち――“聖拳”
絶対の域にまで昇華された只の正拳突きである。
しかし、それは単純でありながらも、否、単純であるからこそ最強を成し得る一撃。
“裁きの鉄槌(ジャッジメンテッド)”の二つ名を冠するその威力をソレは身をもって体験する事になった。
爆発音。
人体が立てることなど無い筈の音が、炸裂した。
右手を突き出した、残心の姿勢のまま、男は確信する。
斃した、と。
命中したのは左肩、常識で考えれば致命には程遠い場所である。
加えて、男の拳は素手であった。
何の武装も纏わぬ只の拳では、どう頑張ったところで骨を砕くのが関の山だ。
勿論、それは彼以外が放ったのであれば、の話だが。
男の拳の延長線上、ソレの左肩は、まるで戦車砲の一撃を受けたかのように吹き飛んでいた。
左肩から胸にかけてが、ごっそりと無くなっていた。皮膚によって隠され筋肉によって支えられ肋骨に収められている筈の中身が、ぽっかりと開いた 大穴から零れ落ち垂れ下がり、それ以上の血液が樽の栓を抜いたように噴き出していた。そして、ソレの背後の道路にはぶち撒けられた血と骨と肉が真新しいラ インを描いていた。
間違いなく致命傷。
それどころか、即死していてもおかしくない。
なのに。
「おや……どうしました?」
平然と、というよりもそれで初めて男の存在に気付いたとでも言うように何気ない声が、男の頭上から降ってきた。
驚愕に凍りつく。
残心の姿勢のまま、男は身動き一つ取れなくなった。
「ば、馬鹿………な………」
理解できない。何故生きている。
必殺の一撃だった筈だ。会心の一撃だった筈だ。確実に致命傷の筈だ。
例え強靭な生命力を持つ能力者であろうとも、そんな傷で生きていられる筈が無い。
いや、そもそも――痛くは、ないのか?
そんな大穴をブチ開けてやったというのに、何故そんなに平然としている。
こんな不条理が、こんな理不尽が許されるのか。
驚愕と、それ以上に、在り得ざるものへの恐懼に縛り付けられたまま、男は見る。
「な、なん………っ」
彼の拳で吹き飛ばされたその場所。
肉も骨も“無くなっている”筈の傷口が、男の見ている前で再生を始めていた。
そう、それは再生としか言い様の無いものだった。
内臓が、内側から伸びてきた手に引きずり込まれていく。
千切れた筋肉が、糸のように細い影で縫い合わされていく。
砕けた骨に、真っ黒な欠片が継ぎ足されていく。
すっかり元通りに組み上げられた影色の人体に、薄い影が皮膚のように張り付く。
そうして、ソレは男の目の前で元通りの形を取り戻した。
ガキの時分にやった、ホラー映画の逆再生を思い出す。
嗚呼、それは、なんと悪趣味な冗談だったのだろう。
恐懼は、既に恐怖へと変わっている。
ガクガクと震えながら、彼は感じた。
何一つ音を立てる事無く、
さながら潮の満ちるにも似た迅速さで自分の全身を掴んでいく闇色の手を。
嗚呼、喰われている。
頭ではないどこか本質的な部分で、男はそう理解した。
すでに首元まで手を掛けられながら、彼はそれでようやく後ろに立つ誰かへ視線を向ける。
現在進行形で自分を喰らおうとしているその存在へ。
突如として降って湧いたその理不尽へと。
「何、だ……お前、お前何なんだよぉぉぉ……!」
「私、ですか?」
ソレは。
先程からずっと、予想外の災厄に見舞われた哀れな被害者の姿をじっと眺めていながら、その実ケージの中で回し車を延々と回し続けるモルモットを 眺める程度の関心すら抱いていなかったソレは、その言葉で初めて男に関心をもった。茫洋と、男に向けていながらもどこか違う所を見ているかのようだった視 線が、初めて男に向けられる。
その瞬間――
「ひ……ぃ」
彼は、“死んだ”と思った。
ソレは、男だった。
多分自分とそうは離れていない年上の男。
雨も降っていないというのに、頭からスッポリと被った真っ黒なレインコート。肩の部分から先が無くなった右袖と、そもそも中身すら無くした左袖。その胸から肩にかけては、先の一撃で黒く染まっている。そして、全身に施された拘束。
それらは確かに奇矯と呼べるだけの特徴ではあったが、
『それ』に比べれば彼にとっては何の意味も無いとさえ言えるものだった。
呼吸を忘れた。心臓の鼓動さえ停止する。
至近距離から『それ』を見ただけで、男は自分が生きているのだという認識を放棄した。
自分の何もかもが、丸ごと削ぎ落とされたかのような錯覚。
――その貌。
自分に向けられたその貌は、笑っていた。
三日月に裂けた口。
まるで童話に出てくる人を煙に巻く猫のような、どこか人懐っこくも見える笑顔。
それなのに。
その眼。
その眼は、なんだ。
まるで、空っぽだ。
何も無い。何も無い何も無い。何も無い何も無い何も無い。何も無い何も無い何も無い何も無い。何も無い何も無い何も無い何も無い何も無い何も無い何も無い何も無い何も無い何も無い何も無い何も無い何も無い何も無い!!
――否、そうじゃあない。
「ぃ……ぁ、ひ……ひ………ぃ」
何も無いのではない。
その眼には、『それ』しか無いのだ。
『それ』以外の何もかもが、存在しない。
だから、何も無いように見えるのだ。
何も無い、完全にして絶対の虚無に等しき唯一。
男がそれに気付けたのは、ただ、それがよく見慣れたものだったからに過ぎない。
だが、在り得ない。
そんなものに、人間の精神は耐えられない。
そんなものを受け入れるだけの容量など、人間には設定されていない。
『それ』を良く知っている男だからこそ、その異常性がまざまざと理解できた。
それなのに、在り得ない筈のものが存在している。
確固たる形を持って、彼の目の前に立っているのだ。
そんなものを直視して――
「おま、おマえ……なん……それ、ひひ……何なんだよ………」
正気を保てる人間がいる訳が無い。
そう、何も無い声が、もう声でなど無いとしたら。
何も無い瞳もまた、瞳などでは無いのだから。
否。
それが不幸なのか幸運なのかは知らないが、最後の最後まで残っていた理性の欠片で、彼はそう叫んだ。それはもう声にすらならなかったけれど、彼を形作る人間としての最後の尊厳が、『それ』と同じである事を否定した。
違う。
これは、こんなものは、断じて違う。
私はもっと人間らしかった。
私の絶望には悲哀があった。憎悪があった。憤怒があった。
愛別離が、怨憎会が、求不得が、五蘊盛あった。
こんな、こんな――『絶望』しか無い化物とは違う!!
ソレは笑う。
絶望だけが無限に渦巻く瞳で。
残骸のような、仮面のような、酷く歪な“笑顔”を貼り付けた貌で。
「私が誰かと、聞きましたね」
最早正気を保つ事さえ諦めた男。
その目を覗き込むように、覆い被さるように顔を近づけて、ソレは言う。
ああ、その声のなんと優しい事か。
幼子に慈しみを施す聖者もかくやと思わせる声音で、ソレは語る。
十年来の親友であるかのように親しげな口調で、ソレは語る。
絶望を。絶望を。絶望を。
計り知れない程の絶望だけを孕んだ声で、ソレは語る。
「私は―――――――誰でしたっけ?」
その言葉を聞いたのと、遂に彼の頭部にまで到達した黒腕の群が男の髪も皮も肉も血も骨も心も命も魂も一切合切区別無く掴み取り握り潰し、その影の中へと引きずり込んでいったのはまったくの同時だった。
乾いた風が、吹いた。
数秒、身動き一つ無く地に落ちたクルスを見つめていたソレは、緩慢な動作で顔を上げた。
その視線の先には、赤黒く燃える煙と蠢く異形。
ソレはじっと、その光景を見据える。
まるで何かを思い出そうとしているかのように。
やがて、ソレは歩き出した。
朱い空の下へ向かって。
荒廃した道路の残骸の上を、真っ黒な影が一人歩いていた。
他には何も無い。誰もいない。
或いは、ソレ自身さえ知らない事であったかも知れないが、
その黒い影が今まで通ってきた場所は、すべて同じようになってきた。
自我を持つかのように蠢く無数の影の手に命在るものは全て喰い尽され、
残るものはいつも無人の廃墟のみ。
化物揃いの封鎖特区において、
その戦闘能力故では無くその在り方によって『最悪』と呼ばれる存在。
他者の生命力を文字通り喰らい尽くす影を引き連れ、
空ろな自我の赴くままに徘徊する、正真正銘の虚無の穴。
際限無き暴食によって事実上無制限の再生を行う破壊不可能の災厄(ケイオス)。
目的も無く突如現れ、全てを喰らい通り過ぎていく最悪の通りすがり。
無限の絶望を孕み、出会った者に須く絶望を抱かせる概念存在。
最早「自分」すらも失ったソレを、誰かはこう呼んだ。
――“葬失(ロスト)”と。
始まりにして終わりの地、鎌倉。
世界結界はもはや意味をなさず、
敵性来訪者の来襲、そしてシルバーレインによるゴーストの発生により荒廃した地。
――この特区において、人間という言葉は意味を成さない。
何故ならば、ここには人間などいないからだ。
人間などという生き物は、とうの昔に死に絶えてしまった。
奪い、犯し、殺す。
略奪し、陵辱し、殺戮する。
そういったものに忌避感を持っていては、生き残れない。
この朱(アカ)い空の下で生きていけるのは、
そういったものを平然と行える、当然として扱える、“そういった”生き物だけだ。
人間というものをどこかにごっそりと忘れてきたモノだけだ。
けれど、そんなものを果たして人間と呼べるだろうか?
否、断じて否!
人間とはもっと素晴らしいものであるはずだ!
善性を尊び、理性を重んじ、自制こそを美徳とする生き物であったはずだ!!
……そう唱える者から順に死んでいった。
だから、もうここには人間などいない。
封鎖特区・鎌倉。
この場所において、人間という言葉は意味を成さない。
人間などという生き物は、とうの昔に死に絶えてしまった。
残っているのは――畜生だけだ。
旧鎌倉市内某所。
今はエノシマ・エリアと呼ばれているその場所を、男が一人歩いている。
男は、一見してすぐに浮浪者と思える風体をしていた。
垢と汗の饐えた臭い。見苦しいまでに伸ばされた無精髭。裾や袖端がズルズルに擦り切れてしまっているシャツとズボン。襤褸を頭からスッポリと被っているせいで顔は窺えないが、その影から覗く両目には力が無く、ただただ絶望だけが浮かんでいる。
今にも倒れてしまいそうな覚束ない足取りで男が歩いているのは、
アスファルトで舗装された広い道路である。
かつては綺麗に整備された車道であったのだろう、
たっぷりと道幅を取った道路はしかし見る影も無く荒れ果てていた。
アスファルトは罅割れ、その隙間からは得体の知れない雑草が覗いている。
まるで傷口に涌いた蛆のよう。
ならばこの道路は屍骸のようなものか。
ああ、それは或いは、言い得て妙かも知れない。
ただし、屍骸なのはこの道ではない。
死んでいるのは、この街だ。
この“特区”自体が巨大な屍なのだ。
ならばこの道路が死んでいるのだとしても、何の不思議があろう。
むしろ不思議があるとすれば、それは――
男は不意に立ち止まり、襤褸の上から自分の胸を握り締めた。
両膝を突き、痩せ細った体を折り、右手で胸の真ん中をきつくきつく握り締める。
それは、神に祈りを捧げているような姿だった。
それは、自分の心臓を抉り出そうとしているような姿だった。
死んでいる。
街も、道路も、死んでいる。人も、心も、死んでいる。
それなのに、
「何故――まだ私は生きている?」
乾いた唇が言葉を紡ぐ。水分を亡くした皮膚は少し動かしただけで容易く裂け、赤く血を滲ませる。けれど男は構わない。もとより痛みなど感じてい ないかのように、そのどうしようもない疑問を口にする。何度問うたかも判らない。誰に問うても答えは無かった。それでも思わずにはいられない、疑問。
「何故――こんな世界になった?」
搾り出された声を聞くモノはいない。それはきっと幸運な事だった。
もし誰かが聞いていれば、きっと正気など保てなかっただろう。
何もない声。そんなものは、もう声では無いから。
正気などとうに持ち合わせて特区の住人達でさえ、そんなものは受け入れられない。
地獄の底を攫う空っ風にも似たおぞましい虚無を孕んだ声で、男は問う。
「何故、こんなことになった?」
自分達は、なんのために戦っていたのか。
こんな世界が来る事が無いように戦っていたのではなかったか。
それなのに、何故世界はこんなことになっている。
誰が間違えたのだろう。
何を間違えたのだろう。
何故間違えたのだろう。
どこで間違えたのだろう。
いつから間違えていたのだろう。
どうして間違えてしまったのだろう。
「私達が……間違っていたとでも………言うのか!」
破れた唇から滴る雫にも気付かず、男は叫ぶ。
それは、叫びと呼ぶにはあまりにも小さな声だったけれど。
それでも、それは男の叫びだった。
削り取られ傷ついた魂の、振り絞るような慟哭だった。
その時。
男の嘆きを食い破るように、爆音が鳴り響いた。
朽ち汚れ墓標のように並び立つ建築物の群のその向こう、赤黒い煙が立ち昇っている。
あの向こうで戦闘が行われているのだ。
それを知ったところで、彼の心にはなんの情動も起こらなかった。
この特区において能力者同士の戦闘など日常茶飯事である。
なにより、彼は絶望に疲弊し過ぎていた。
例えばその煙の下で繰り広げられている戦いが、この異形と異常を押し込めた特区においてさえ圧倒的に逸脱した戦闘能力を持つ“本物の化物共”によるものだと知っていたとしても、彼は気にしなかっただろう。
男は機械的な動作でのろのろと顔を上げ、無感動な視線を空へと向ける。
朱い空。上がる黒煙。響く爆音。倒壊するビルの断末魔。
世界の終りのような光景。
否、終わってしまった世界が、そこにあった。
男は立ち上がる。その顔に浮かんでいるのは、絶望と諦観だけだ。
膝を払う事も無くまたフラフラと歩き出そうとして、最後にもう一度空を見上げる。
朱い空。上がる黒煙。響く爆音。蠢動するナニカ。倒壊するビルの断末魔。
「………?」
そして男は踏み出そうとしていた足を止めた。
なんだろう、今、ナニカが見えたような………
朱い空。上がる黒煙。響く爆音。倒壊するビルの断末魔。
そして、朱い空を背景に蠢く、なにか、酷くおぞましいなにかが。
「あ……ぁ………」
それを、いかにして例えよう。
其れは終りだった。其れは絶望だった。其れは悪夢だった。其れは禁忌だった。其れは狂気だった。其れは蠕動する肉塊だった。其れは脈動する群体 だった。其れは蠢動する醜悪だった。其れは地獄の底から溢れ返った冗談だった。其れは凝り固まった腐泥で練り上げられた出鱈目だった。其れは思いつく限り の嫌悪を催す全てを一つ処に押し込めた不条理だった。
或いは其れは――聖書に語られる『軍団』のようであった。
「あ、あぁぁぁぁぁぁぁぁ………」
終りが蠢いている。あのビルの向こうで。
絶望が渦巻いている。あの黒煙の元で。
禁忌がのさばっている。あの朱い空の下で。
狂気が歌い踊っている。あの、あんな醜悪な姿で。
男は、ただそれを見上げていた。
両目を見開き、閉じることも出来ない口はだらしなく半開きのまま意味を成さない音を垂れ流して、脚は瘧のように震え、例えこの瞬間にも失禁し正気を失っても不思議ではなかっただろう。
そんなものだ。
本物の終りを前に人はあまりにも無力である。
無力なる者はただ諦め、全てを投げ出すしかないのだ。
そう――
チャリン、と銀色の音が響いた。
今にも正気を手放そうとしていた男の目が、地面へと下りる。
朽ち果てたアスファルトの上、そこに。
「あ――あぁ……」
ただしそれは――
いつか彼女から貰った、
今はもういない彼女から託された、
どれだけの絶望がその身を刻み尽くしても決して手放さなかった、
そっと手を触れるだけであの輝かしい日々を鮮やかに思い出させてくれた、
銀色の、クロスが落ちていた。
彼が本当に――無力だった場合の話である。
「私達が……間違っていた?」
馬鹿な。
ならば何故私達は戦った。あの戦いの日々が、間違っていたとでも?
――気が付けば、脚の震えが止まっていた。
「あの日々が………間違っていた?」
違う。
そんな事はない。そんな事は、あって良い筈が無い。
――乾いた唇は、血を流しながらも確かな言葉を紡いでいた。
「そんな、事が………」
もしあの日々が間違っていたというのなら――あの人達の死は何だった。
守りたい人達がいた。心を許した友達がいた。誰よりも愛した恋人がいた。
あの人達が託した想いも。あの人達が抱いた願いも。
全て、間違っていたとでも言うのか!
――見開いた両目には、燃え上がらんまでの意志が満ちていた。
「そんな事が――許せるものか!!」
吼える。
獣のように、或いは勇者のように咆哮する。
男はもう、絶望に浸った浮浪者などではなかった。
垢と汗の饐えた臭い。見苦しいまでに伸ばされた無精髭。裾や袖端がズルズルに擦り切れてしまっているシャツとズボン。惨めに痩せ細った体。
それでも、その表情は紛う事無き戦士のそれだった。
「立ち向かってやる……」
あんな巨大な化物を自分独りで倒せるなどとは思わない。
だが、それがなんだと言うのだろうか。
あれは敵だ。この世界――あの日々が紡いだ世界を脅かす敵なのだ。
ならば、例え犬死だとしても構わない。
そう、今はもう遠い昔。
かつてあの学園で。かつてあの輝ける日々に。かつてあの仲間達と共に。
かつて自分が、世界を脅かす全ての不条理に対して“そう”したように。
“そう”してやる。
「立ち向かってやる――!!」
朱い空へ、その空を覆わんとするおぞましき侵略者に向けて男は吼えた。
拳を突き上げんばかりに咆哮した。
真っ直ぐに、正しき怒りを宿した瞳で倒すべき敵を睨み付けた。
今此処に――最も気高き意志が甦る。
聞くが良い、世界を穢す者共よ。
そして心せよ。
彼の者こそは“聖拳(ジャッジメンテッド)”。
あらゆる邪悪を打ち砕く至誠の拳。
高き空を仰ぐ、真に勇敢なる戦士である。
「貴方、足元がお留守ですよ」
「え?」
突然真後ろからかけられた声に、男は振り向いた。
反射的な行動だった。
完全な不意。
つい一秒前には誰もいなかった場所に現れた誰かの声に、彼はつい反応してしまったのだ。
それは、なんという愚かさか。
もし彼が戦士として全盛期の感覚を持っていたのならば、
振り向くよりもまずなんとしてでも逃げようとしてただろう。
「あ、あれ?」
だから、それは必然の事。
背後へと向けかけていた視線を、男は自分の足元へと落とした。
影があった。
自分の影があった。
自分の影から生えた手があった。
自分の影から生えた無数の手があった。
自分の影から生えた無数ののっぺりとした手があった。
自分の影から生えた無数ののっぺりとした夥しい数の手があった。
自分の影から生えた無数ののっぺりとした夥しい数の手に掴まれている足があった。
「え? う、嘘、なんだよ、これ」
困惑する。それもまた無駄だ。
そんな事をしている余裕があれば、彼は脚を切り落としてでも逃げるべきだった。
けれどもう遅い。
蜘蛛が巣に掛かった虫を絡め取っていくように、黒い手は男の胸までもを掴みにかかっていた。
「く――おおおぉぉぉぉぉッッ!!!」
ようやく、それはあまりに遅すぎたとは言え、男は戦士としての行動を取った。
即ち、反撃である。
得体の知れぬ敵であれば、得体の知れぬまま打ち倒せばいい。
振り返る途中であったために、体がやや半身になっていたのも都合が良かった。
この体勢からなら――必殺の一撃を叩き込める!
全身が稼動する。肉が、骨が、純粋な破壊を生み出すための装置として駆動する。
“手”の拘束など問題にもならない。
何故ならこの身は一つの機械。その一撃を生み出すための機構に過ぎないのだから。
回転が連続し、加速が連鎖する。
龍の如く全身を走り抜けた最大速度は拳に宿り、標的を撃つ。
空手、という武術において基本にして最終形とされる『必殺』の一。
それが今、解き放たれる。
「破―――ッ!!」
其れ即ち――“聖拳”
絶対の域にまで昇華された只の正拳突きである。
しかし、それは単純でありながらも、否、単純であるからこそ最強を成し得る一撃。
“裁きの鉄槌(ジャッジメンテッド)”の二つ名を冠するその威力をソレは身をもって体験する事になった。
爆発音。
人体が立てることなど無い筈の音が、炸裂した。
右手を突き出した、残心の姿勢のまま、男は確信する。
斃した、と。
命中したのは左肩、常識で考えれば致命には程遠い場所である。
加えて、男の拳は素手であった。
何の武装も纏わぬ只の拳では、どう頑張ったところで骨を砕くのが関の山だ。
勿論、それは彼以外が放ったのであれば、の話だが。
男の拳の延長線上、ソレの左肩は、まるで戦車砲の一撃を受けたかのように吹き飛んでいた。
左肩から胸にかけてが、ごっそりと無くなっていた。皮膚によって隠され筋肉によって支えられ肋骨に収められている筈の中身が、ぽっかりと開いた 大穴から零れ落ち垂れ下がり、それ以上の血液が樽の栓を抜いたように噴き出していた。そして、ソレの背後の道路にはぶち撒けられた血と骨と肉が真新しいラ インを描いていた。
間違いなく致命傷。
それどころか、即死していてもおかしくない。
なのに。
「おや……どうしました?」
平然と、というよりもそれで初めて男の存在に気付いたとでも言うように何気ない声が、男の頭上から降ってきた。
驚愕に凍りつく。
残心の姿勢のまま、男は身動き一つ取れなくなった。
「ば、馬鹿………な………」
理解できない。何故生きている。
必殺の一撃だった筈だ。会心の一撃だった筈だ。確実に致命傷の筈だ。
例え強靭な生命力を持つ能力者であろうとも、そんな傷で生きていられる筈が無い。
いや、そもそも――痛くは、ないのか?
そんな大穴をブチ開けてやったというのに、何故そんなに平然としている。
こんな不条理が、こんな理不尽が許されるのか。
驚愕と、それ以上に、在り得ざるものへの恐懼に縛り付けられたまま、男は見る。
「な、なん………っ」
彼の拳で吹き飛ばされたその場所。
肉も骨も“無くなっている”筈の傷口が、男の見ている前で再生を始めていた。
そう、それは再生としか言い様の無いものだった。
内臓が、内側から伸びてきた手に引きずり込まれていく。
千切れた筋肉が、糸のように細い影で縫い合わされていく。
砕けた骨に、真っ黒な欠片が継ぎ足されていく。
すっかり元通りに組み上げられた影色の人体に、薄い影が皮膚のように張り付く。
そうして、ソレは男の目の前で元通りの形を取り戻した。
ガキの時分にやった、ホラー映画の逆再生を思い出す。
嗚呼、それは、なんと悪趣味な冗談だったのだろう。
恐懼は、既に恐怖へと変わっている。
ガクガクと震えながら、彼は感じた。
何一つ音を立てる事無く、
さながら潮の満ちるにも似た迅速さで自分の全身を掴んでいく闇色の手を。
嗚呼、喰われている。
頭ではないどこか本質的な部分で、男はそう理解した。
すでに首元まで手を掛けられながら、彼はそれでようやく後ろに立つ誰かへ視線を向ける。
現在進行形で自分を喰らおうとしているその存在へ。
突如として降って湧いたその理不尽へと。
「何、だ……お前、お前何なんだよぉぉぉ……!」
「私、ですか?」
ソレは。
先程からずっと、予想外の災厄に見舞われた哀れな被害者の姿をじっと眺めていながら、その実ケージの中で回し車を延々と回し続けるモルモットを 眺める程度の関心すら抱いていなかったソレは、その言葉で初めて男に関心をもった。茫洋と、男に向けていながらもどこか違う所を見ているかのようだった視 線が、初めて男に向けられる。
その瞬間――
「ひ……ぃ」
彼は、“死んだ”と思った。
ソレは、男だった。
多分自分とそうは離れていない年上の男。
雨も降っていないというのに、頭からスッポリと被った真っ黒なレインコート。肩の部分から先が無くなった右袖と、そもそも中身すら無くした左袖。その胸から肩にかけては、先の一撃で黒く染まっている。そして、全身に施された拘束。
それらは確かに奇矯と呼べるだけの特徴ではあったが、
『それ』に比べれば彼にとっては何の意味も無いとさえ言えるものだった。
呼吸を忘れた。心臓の鼓動さえ停止する。
至近距離から『それ』を見ただけで、男は自分が生きているのだという認識を放棄した。
自分の何もかもが、丸ごと削ぎ落とされたかのような錯覚。
――その貌。
自分に向けられたその貌は、笑っていた。
三日月に裂けた口。
まるで童話に出てくる人を煙に巻く猫のような、どこか人懐っこくも見える笑顔。
それなのに。
その眼。
その眼は、なんだ。
まるで、空っぽだ。
何も無い。何も無い何も無い。何も無い何も無い何も無い。何も無い何も無い何も無い何も無い。何も無い何も無い何も無い何も無い何も無い何も無い何も無い何も無い何も無い何も無い何も無い何も無い何も無い何も無い!!
――否、そうじゃあない。
「ぃ……ぁ、ひ……ひ………ぃ」
何も無いのではない。
その眼には、『それ』しか無いのだ。
『それ』以外の何もかもが、存在しない。
だから、何も無いように見えるのだ。
何も無い、完全にして絶対の虚無に等しき唯一。
男がそれに気付けたのは、ただ、それがよく見慣れたものだったからに過ぎない。
だが、在り得ない。
そんなものに、人間の精神は耐えられない。
そんなものを受け入れるだけの容量など、人間には設定されていない。
『それ』を良く知っている男だからこそ、その異常性がまざまざと理解できた。
それなのに、在り得ない筈のものが存在している。
確固たる形を持って、彼の目の前に立っているのだ。
そんなものを直視して――
「おま、おマえ……なん……それ、ひひ……何なんだよ………」
正気を保てる人間がいる訳が無い。
そう、何も無い声が、もう声でなど無いとしたら。
何も無い瞳もまた、瞳などでは無いのだから。
否。
それが不幸なのか幸運なのかは知らないが、最後の最後まで残っていた理性の欠片で、彼はそう叫んだ。それはもう声にすらならなかったけれど、彼を形作る人間としての最後の尊厳が、『それ』と同じである事を否定した。
違う。
これは、こんなものは、断じて違う。
私はもっと人間らしかった。
私の絶望には悲哀があった。憎悪があった。憤怒があった。
愛別離が、怨憎会が、求不得が、五蘊盛あった。
こんな、こんな――『絶望』しか無い化物とは違う!!
ソレは笑う。
絶望だけが無限に渦巻く瞳で。
残骸のような、仮面のような、酷く歪な“笑顔”を貼り付けた貌で。
「私が誰かと、聞きましたね」
最早正気を保つ事さえ諦めた男。
その目を覗き込むように、覆い被さるように顔を近づけて、ソレは言う。
ああ、その声のなんと優しい事か。
幼子に慈しみを施す聖者もかくやと思わせる声音で、ソレは語る。
十年来の親友であるかのように親しげな口調で、ソレは語る。
絶望を。絶望を。絶望を。
計り知れない程の絶望だけを孕んだ声で、ソレは語る。
「私は―――――――誰でしたっけ?」
その言葉を聞いたのと、遂に彼の頭部にまで到達した黒腕の群が男の髪も皮も肉も血も骨も心も命も魂も一切合切区別無く掴み取り握り潰し、その影の中へと引きずり込んでいったのはまったくの同時だった。
乾いた風が、吹いた。
数秒、身動き一つ無く地に落ちたクルスを見つめていたソレは、緩慢な動作で顔を上げた。
その視線の先には、赤黒く燃える煙と蠢く異形。
ソレはじっと、その光景を見据える。
まるで何かを思い出そうとしているかのように。
やがて、ソレは歩き出した。
朱い空の下へ向かって。
荒廃した道路の残骸の上を、真っ黒な影が一人歩いていた。
他には何も無い。誰もいない。
或いは、ソレ自身さえ知らない事であったかも知れないが、
その黒い影が今まで通ってきた場所は、すべて同じようになってきた。
自我を持つかのように蠢く無数の影の手に命在るものは全て喰い尽され、
残るものはいつも無人の廃墟のみ。
化物揃いの封鎖特区において、
その戦闘能力故では無くその在り方によって『最悪』と呼ばれる存在。
他者の生命力を文字通り喰らい尽くす影を引き連れ、
空ろな自我の赴くままに徘徊する、正真正銘の虚無の穴。
際限無き暴食によって事実上無制限の再生を行う破壊不可能の災厄(ケイオス)。
目的も無く突如現れ、全てを喰らい通り過ぎていく最悪の通りすがり。
無限の絶望を孕み、出会った者に須く絶望を抱かせる概念存在。
最早「自分」すらも失ったソレを、誰かはこう呼んだ。
――“葬失(ロスト)”と。
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